「人生を導く5つの目的」リック・ウォレン師著からの抜粋です・・・「クリスチャンたちが犯している最も典型的な間違いというのは、神ご自身を求めるよりも、何らかの体験を求めていることです。彼らは、ある種の感情的体験を求めています。そして、感情的体験を求めています。そして、感情的な高まりを経験することで礼拝した気分になっているのです。しかし、それは間違いです。実際、神はしばしば私たちの感情を取り除いて、私たちがそれに依存することのないようにされます。感情を求めること、またキリストとの親密な感覚を求めることさえ、礼拝とは言えません。あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えてくださったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」

これは私がクリスチャンになってから疑問に思っていたことに答えられている内容です。人は感情とか気分を重要視します。そして感情を高めたり、気分を良くしてくれる所へ集まります。感情も神さまが人間に対する楽しみを感じる感覚として与えてくださったものなので否定はしませんが、神さまが触れてくださったとか、聖霊が働いてくださっているという根拠を「感情」や「気分」に頼るならば、それは間違いです。イエスさまに出会って間もない頃は、それでも良いですが、成長したら、そのような感覚から離れて信仰に立つことを求められるのです。感じなくても神さまは、あなたのすぐ傍に立っておられます。心が砂漠状態であったとしても、神はあなたを背負いながら歩いておられるのです。

クリスチャンが主にあって、どんな時も平安でいることができるのは、感情や気分による愛や赦しではなく、神と人との契約に基づいたものだからです。私たちが裏切っても神は裏切られないのです。私たちにとって、あまりにも都合良すぎませんか? でも、この条件なしの一方的な愛(アガペ)でしか本当の安心はないのです。