イエスさまがパリサイ人の家で食事の席についておられた時に、その町で「罪の女」で知られていた一人の女性が泣きながら入ってきて、イエスさまの足元に寄り、涙で足を濡らし、自分の髪の毛でそれを拭い香油を塗りました。その場にいた人たちは冷ややかな目でそれを見ながら思いました。「イエスが預言者なら、この女が誰で、どんな女であることがわかるはずだ!」
 ある聖書解説者がこの箇所をこのように解説していました。「私には、この女性が何故泣きながら入ってきたのかは、想像でしかわかりませんが、確かにイエスさまは、この女性の涙が一滴足に落ちた瞬間から、その女性が誰であって、どんな過去を経験してきたかを悟りました。この罪の女性は、恐らくイエス・キリストの話しに耳を傾けながら、ふと幼年時代のことが心に浮かんできたのだろう。それは、自分を金で買った養父に叩かれ、泣きながら夜をあかした日のこと。しばらくしてその養父に売られて卑しい仕事を始め苦しんだ日のこと。そして体中に吹き出物をつくって足を引きずりながら、子どもたちに石で追われながら村から村、町から町をさまよい、やがて荒野で死んでいく広場で見た売春婦であった老婆のように、自分も同じような運命をたどるであろうことを想像しました。しかし、もはやこの罪の仕事をしていく以外に生きていく方法はないと、自分の身も心も傷つけながら今日まで生きてきたのであろう。しかしイエスさまは、この女性の落とした涙を通して不幸な半生を全て理解されました。そしてこの女性に対するイエスさまのかけられた言葉は、『あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。』でした。」
 
人は自分を理解して欲しい故に、色々な態度や言葉で人に伝えようとしますが、それがかえって誤解を生んだり相手を不快にしたりすることがあります。誰も理解してくれなくても、一滴の涙だけで、すべてを理解してくださるお方がいて、身を預けることができたら、他は何もいりませんね。そのお方が今日も語っておられます。「安心していきなさい」