ある未開の土地に住む原住民には、興味深い風習があります。狩りに出かける途中、棒きれを地面に立てて「獲物を捕ることができますように」と祈願して道を進んで行きます。その日、収穫があれば帰り道に、その棒きれの神さまにお礼を言って帰りますが、収穫がなければ、その棒きれを踏んだり蹴ったりして、挙げ句の果て川に投げ込んで帰るというのです。そしてまた新たな棒きれの神を立ててお祈りするのです。
日本には八百万(やおよろず)の神々がいると言われますが、どうして八百万体もの神々が必要なのでしょうか? それはこの未開の原住民と同じく、自分の願いを叶えてくれなければ、その神を捨て新しい神を作るということを繰り返しているうちに、八百万にも神口(じんこう)が増えてしまったという現実があるようです。又、神さまにも得意分野と不得意分野があるようで、人間の必要用途によって神さまたちが使い分け利用されているようです。そればかりか利用できる神々と、つまらない神々の仕分け作業も行われているというのです。
私はすべての分野において得意とされる神さまに出会うことができたことは、本当に幸いなことだったと思っています。お一方だけで全ての願いに対する必要を満たしてくださるお方なのです。しかもこの地上でのことだけではなく、死後の永遠の世界における行き先の問題までも解決してくださるのです。そして現に私の人生は明るく元気でのびのびとしたものに変えられました。 
 世界の人々の共通する悩みとして、空白感、孤独感、死に対する恐怖、罪責感が挙げられています。たとえ億万長者になったとしても、有名人になったとしても、地位や名誉が与えられても、この悩みは変わらないそうです。私も14歳の時から、全てにおける解決が与えられました。勿論、日々出てくる様々な問題がないわけではありませんが、平安なのです。生殺与奪の権を主に委ねたら楽になれます。これは本当です!
「空の鳥、野の花を見よ・・・だから、あすのことを思い煩うな」(聖書)
Happy Easter!