私は学生時代に、自分の利害や名誉のために争い勝つことが、いかに愚かなことであるかを体験したことがありました。
当時、学生専用のアパートに他の3人のルームメイトと住んでいましたが、ある日の夜、その中の1人と、あることで口喧嘩になりました。冷静に考えると、どう考えても私の方が悪いのですが、意地でも相手に譲りませんでした。その次の日は、お互いに顔を合わせず、挨拶もしないでそれぞれの大学の講義へ出かけて行きました。夕方、私は帰ってきたのですが、彼と顔を合わせたくないので、自分の部屋に閉じこもり、リビングには出ませんでした。やがて彼も学校から帰ってきました。彼は帰ってくるやいなや一直線で、私の部屋の前に来て、ドアをノックしました。ドアを開けると彼はすぐに「アツー(私のあだ名)、昨夜はごめん・・・友達のしるしに・・・」と言いながら、握手しようと手を出してきました。私は自分の方が悪いのはわかっていましたし、私の方から謝るのが当然な状況で、まさか相手から謝ってくるとは予想もしていませんでした。ですから返す言葉に困りました。照れもあって、すごすごと手を出して握手するのがやっとでした。その時に私は「負けた・・・」と思いました。自分から謝らなかったことが、惨めでした。実は、彼は私より10歳近く年上でしたから、私の言動は生意気以外の何ものでもありませんでした。しかし彼は一日中、考えたのでしょう。そして、その結論が「自分が愚かになろう。」ということだったのです。私より人生経験が長く、私の方が間違っていることを承知の上で、あえて負けることで勝利したのです。私は謝られた側でしたが敗北感でいっぱいでした。
2千年前、イエス・キリストは、人々の嫉妬と危機感と群集心理によって十字架につけられました。全くの冤罪でした。人々から罵られ、あざけられ、世を呪っても許されたであろう状況の中で発せられた祈りの言葉は、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」この愚かさが、神の強さでした。キリストは甦り勝利されました。負けることができる人こそ、真に強い人なのです。