我が家は5年前に父が他界し、慎ましいながら神を愛する家庭だった。
 イースターを前にして牧師が、「お金を貯めて、この教会の貧しい家族に献金しましょう」と呼びかけた。私たち家族は、どのようにしてお金を貯めようかと相談した。ジャガイモだけを食べるとひと月に2千円は貯められる。姉はベビーシッターをする。小さい私たちはポットホルダーを20個作って、1個100円で売れば2千円になる。薄暗い部屋で「今日はいくら貯められたかな」と計算し、「これで貧しい家族を助けることができたら嬉しいね」と話し合った。イースターの朝はあいにく雨だった。傘もないし、靴には穴があいていた。頭から足先までびしょ濡れになった。でも献金を捧げることができるということが嬉しかった。献金袋が回ってきたので、母と姉の分を合わせて合計7千円を捧げた。捧げることができた喜びで、スキップするようにして家に戻ってきた。
 夕方、牧師が私たちの家を訪ねてきた。礼拝で集めた献金を届けてくれた。『貧しい家族』とは私たちのことだったのだ。教会に行くのが恥ずかしくなった。私たちが貧しい家族だとは今まで思ったことがなかった。確かに私の家では、贅沢はできないし、特別な日にもご馳走はない。母が牧師から受け取った封筒を開けてみると8千7百円入っていた。次の礼拝の日、母は気の進まない私たちを連れて教会へ向かった。説教者は海外から来られた宣教師だった。「小さな会堂を建てていますが、屋根を作るお金がありません。是非ご協力いただけないでしょうか?」と訴えた。献金袋が回ってきたので、母は私たちを見て、教会からいただいた献金8千7百円をそのまま捧げた。礼拝後、宣教師は「皆さん、この教会にはお金持ちがいるのですね。集めたお金は1万円でした!」 一万円のうち私たちが捧げたのが8千7百円だ。宣教師がお金持ちと言ったのは私たちのことだ、と思った。私たちはけっして貧しくないのだ。
 この記事を読みながら、その教会が行なった献金のやり方には問題があると思いますが、大切なことを教えられたような気がした。私たちの心の持ち方で、その人自身が幸せにも不幸にもなれるということです。