ビリーグラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い労働をしていた一人の男性が救われました。貧しさのゆえに荒れた生活をしていた彼は、その時を境にして、生活ぶりが全く変わりました。教会へも日曜日ごとに忠実に出席しはじめ、仲間に会うと、誰かれとなく教会へ一緒に行こうと誘うようになりました。
ある日、仕事場で顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうけれども、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組んで仕事をしはじめました。二人は昼食時になり、ガレキの山に腰をおろし、ポツリポツリと世間話を交わしていましたが、彼は「今度、教会へ行かないかい?」と勧めました。突然のことに刀傷の男は「この俺が?」と自らを指しながら驚いた様子でした。しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、こう言いました。「俺なんかダメさ・・・こんな醜い傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ・・・」そうすると彼は言いました。「いいや、俺たちをな、迎えてくれるお方がいるんだよ。そのお方は、お前より、もっと酷い傷が体中に、顔に手足にあるんだよ。」
私たちの顔や体に傷はなかったとしても、目に見えない心の傷はけっこうたくさんあるものです。しかし、この地上で全ての苦難を通られたイエス・キリストが、私たちを理解し迎え入れてくださるなんて本当に有難いことです。
今から2千年前に、キリストは家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされていました。この貧しい幼子に何ができる?と思えるようなお姿でした。でも神共におられるならば、境遇は関係ありません。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエル『神われらと共にいます』と呼ばれるであろう」。(マタイ1の23)