榎本保郎先生が、かつて同志社の神学生であった時、牧師に連れられて路傍伝道へ行かれたときの体験したことを書いておられます。祭りの夜であったせいか大勢の人たちが町に出てきていました。牧師が街角に立って説教をしますが、誰一人足を止めて聞く人はいません。その後、今度は若き榎本神学生がお話をすることになりました。大きな声で「皆さん!」と叫びましたが、やはり誰も足を止めてはくれませんでした。話が終わり何とも言えない気持ちで教会へ引き上げました。その時は、恥ずかしさと信仰に耳をかさない人々に対する怒りで腹が煮えくり返っていたそうです。そんな神学生の傷口にでも塩を塗るかのようにして、前をちょろちょろしていた子供たちが「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかいました。振り向いてにらめつけてやったとのこと・・・ 教会へ帰ると牧師はすぐに感謝祈祷をしようと言われましたが、またそれに腹が立ちました。「何が感謝や! 腹が立ったら腹が立ったっていいじゃないか! そのほうがよほど正直や!」と内心思いましたが、そこで歌った讃美歌536番の歌詞「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや。水の上に落ちて流されし種も、いずこの岸にか生いたつものを。浅き心もて、ことを計らず、み旨のまにまにひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、思わぬ木陰に人もや宿さん。」歌いながら自分の信仰のなさを恥じたと告白されています。     
 その20年後、榎本先生は牧師になっておられました。ある日、先生の教会に同志社の神学部の新卒生が派遣されてきて、彼と面接しながら住所を見たところ、かつていた教会の近くだったので、当時の路傍伝道の苦労をお話しされました。彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言いました。「先生、あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししておられます。
 
 先週は、何年も祈られ、私も訪問してきた80歳の女性がイエス様を受け入れ、洗礼を受けました! 人の時ではなく、主の時を感じました。