ある方が投稿された文章です。
12年前に亡くなったおじいちゃんの部屋から、当時小学6年生だった私と一緒に折った紙飛行機が見つかった。懐かしくて手に取ったら、紙が茶けててボロボロで、破れた隙間から何か文字が見えたので広げて見ると、おじいちゃんが当時の私に書いたものだった。
「かなこや、おまえはかわいい わ(わ→私)のたからじゃき だいじに だいじに おおきゅうなるまっで じいちゃが だいじにしたるきな じいちゃは かなこがだいすきじゃ おまんが じいちゃのこと いらんゆうとも さみしいけんど じいちゃは かなこがだいすきじゃきな あんま きらわんとってな かなこが・・・(ここから先読めない)」当時の私はおじいちゃんが好きになれなくて平気で目の前で「いらん」「死ね」って言っていました。こんなに愛されていたなんて、こんなに大切にされていたなんて全然知らなかった。ごめんな、おじいちゃん・・・。
聖書に「神はそのひとり子を賜った(プレゼントする)ほどに、この世(わたしたち)を愛して下さった。それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)という箇所があります。私たちが「神なんていらない」「宗教なんて嫌いだ」と言っている時にも、神は「あなたがわたしのことをいらないと言っても、わたしはあなたを愛しています。」とメッセージを送り続けています。
おじいさんのラブコールが孫へ届いて、その孫がその愛に気付いて応答することは宗教ではありません。同じように、神が私たちにラブコールをしておられて、私たちがそれに気付き受け入れることを、「宗教」とは呼びません。私はこれを神さまとの「愛のキャッチボール」と呼びたい。神さまから愛を投げても、私たちがそれを受けて投げ返さなければキャッチボールは成立しません。
楽しい人生は、神さまとのキャッチボールから始まります!