暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか? 私は植木のお手伝いをしているため、炎天下で作業をすることも多々あります。そんな中で神さまの恵みを学ぶこともよくあります。植木は庭師の思いのままにその形を変えていきます。たとえ無駄な枝がたくさん出ていて、見るからにみすぼらしい装いをしていても、庭師の手が加われば美しく整えられていくのです。またその枝ぶりも時間をかけて手入れされていくと、やがては美しいフォルムへと変化していくのです。私はこの様子を見ながら、人間も同じだと思わされました。それは、神さまが私たちを手入れしてくだされば、必ず祝福されていくということです。
私たちの人生は、結果が出るまで何十年もかかることがあります。「桃栗3年、柿8年」と言われます。それぞれの木が良い実を実らせるために、農園主は様々な方法で手を加えてその成長を助けています。
先日、私の植木の師匠からお聞きした話なのですが、彼が昔、吉野の下市町にいる知り合いの柿農園に傷モノの柿をいただきに行ったことがあったそうです。そこのご主人に柿の剪定の仕方や、育て方を教えていただいているとき、農園に収穫されず小さい実がたくさん残っている渋柿を見つけました。何故、渋柿をそのままにしているかと尋ねると、違う種類の柿を植えると受粉しやすく実がなりやすくなるのだと答えられたそうです。渋柿がなければ受粉しないわけではないのですが、より多くの実をつけやすくするために、そのようにしているとのことでした。
私たちの人生にも、周りには様々な人たちがいます。必ずしも甘い人達だけではありません。中には受け入れたくない渋い人もいます。でも、そのような人たちを通して、私たちが多くの良い実を結んでいくために必要な存在として農園主が植えたとするならば、それを甘んじて受け入れるべきでしょう。剪定という荒治療をされることもありますが、それも全ては私たちの将来のためなのです。時来れば多くの実を結ぶべし。