時間に愛をこめることを、私は修道院に入って教えられた。アメリカで修業中のある日のこと、昼食が済み、夕食の準備として配膳をしていた時のことである。百数十名のために、長テーブルの椅子の前に一つひとつ皿やコップを並べていた時のことである。「何を考えながら仕事をしていますか」と突然、後ろから声をかけられた。私は咄嗟に、「別に何も」と答えていた。すると、その年長の修道女はきびしい表情で、「You are wasting time.(あなたは時間を無駄にしている)」と言うではないか。
手早く、一心不乱に皿並べをしている私には不可解なコメントであった。けげんな面持ちをする私に、その人は静かに、さとすように教えてくれたのである。「同じお皿を並べるのなら、夕食にそこに座るであろう一人ひとりのために、祈りながら置いてごらんなさい」
ロボットでも並べられる皿、それを、ロボットと同じに置いてはいけない、人間には人間にしかできないことがあるのだということを、その日、私は習ったのである。そして、時間の無駄とは何なのかということも。           (「愛をこめて生きる」渡辺和子著より抜粋)

信仰と社会の両立はできないと考える人たちがいますが、聖書はそうは教えていません。ローマ書において「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」とは勧めながら、「世に存在している権威は、すべて神によって立てられたものである・・・この世に対して、義務を果たしなさい」とも教えています。この世で義務を果たすことは、神さまが私たちに与えられた、この地上での務めなのです。ですから、この地上における一分一秒も神の栄光のために生きることを意識しなければならないのです。この社会の中にも家庭の中にも神さまはおられて、私たちが神の栄光を表す機会として与えてくださっているのです。
人間にしかできない「愛をこめて生きる」を心がけたいと思います。