理想主義に燃える若者にとっては、世の中は「不条理」で出来上がっている、ということは認めにくいかもしれません。しかし、汚職まみれの政治家が何度も当選したり、人を不幸にしながら成功していく企業がある、ということは理不尽ですが、世の中は、その理不尽によって成り立っています(少々語弊があるかもしれませんが、そういう「理不尽」な仕組みがまかり通って、現実の社会が構成されているのだ、ということを認める必要があります)。自分たちが思っている、ある種の「正義」なり「道義」なりのとおりに世の中ができているのではありません。
自分が、ある「正義」や「道義」をもっているのは自由ですが、必ずしも、自分以外の人たちも同じ考えをもっているとはかぎりません。では、そのような「理不尽」なことをしている人を見かけたときに何も糾弾しなくていいのか、ということになりますが、実は「人を裁かない」「人を糾弾しない」ということは、とても重要なことに思えます。では何もしないのか、という話にまた戻りますが、何もしないのではなく、「ああいうことは、自分はしない」と決意することが、たぶん最も重要なことなのでしょう。
世の中は「不条理」に満ちている、「不条理」がたくさん集まってできているのだ、と認めること、その「不条理」が、自分にとって許せないものであるならば、「不条理」の中にいる人を糾弾するのではなく、「自分自身はそういう生き方をしない」と固く決意し直すこと・・・それが遠回りのようでも、結局は温かで穏やかな社会をつくっていくための近道のような気がします。 (「き・く・あ」の実践・小林正観より抜粋)

私はこの内容に同感します。そして聖書的エッセンスを加えるならば、「不条理」とは、私たちを最高の人生へと導くために神が準備された壮大な計画の一部分であります。必ず乗り越えられます!