「おまえは他人を救ったが、自分自身は救わないのか?」これは、十字架にかかるキリストに投げかけられたののしりの言葉でした。しかし、この言葉を良く読んでみると未だかつて聞いたことのない、ののしりの言葉だと思いました。多くの人たちは「自分は救えたが、他者は救えなかった」と言うのが常です。今の政治の世界も、「自分たちの生き残りのために、国民(他者)を犠牲にするのか?!」という批判の声をよく耳にします。そう考えるときに、キリストに対する批判の声は、栄誉あるののしりであると思いました。キリストが、この地上に来られた目的は、まさに人々を救うためであって、自分を救うためではなかったからです。人々は、「十字架から降りて来い!」と叫びました。しかし、キリストにとっては十字架から降りることは、いとも簡単なことであったにも関わらず、あえて降りることをしなかったところに奇跡があるのです。人間の考える奇跡と、神の奇跡とには、大きな違いがあることを知らなければ、大きな間違いや勘違いをしてしまうことでしょう。
私たち一人一人の生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあるでしょう。そこから冷たいすきま風が吹くことだってあります。それは病気かもしれませんし、大切な人の死であるかもしれません。他者とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さや浅さも様々です。全てが、ずっと順風満帆な人生などありえません。その穴を埋めることも大切ですが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から覗いて見ることも生き方として大切なことだと思います。開いた穴からでしか見ることができない世界が必ずそこにあるはずだからです。
キリストは、弟子たちの裏切りという穴を通して、自分が創った愛する人々からの、ののしりという穴を通して、十字架での苦しみという穴を通して、希望を見出されていたのです。「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍んだ」(へブル12の2)