私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
 その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから聖書に出会う前の私は、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったあら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。 (クリスチャン新聞の福音版5月号より)