友人がまだ学生で学期末を迎えていたころ、卒業論文を抱えていました。連日の徹夜で、図書館へ通いつめる日々を耐え、やっとの思いで論文を書き上げて提出することができました。3日後、採点された論文が戻ってきました。彼の論文には赤字で次のように書かれていました。「よくリサーチがされていました。実例も十分、文献目録もすばらしい。評価=落第点・・・このクラスの課題ではありません!」この話を思い出すと今でも笑ってしまいますが、私たちにとって痛切な真理を教えてくれます。人生最後の時に神様にこんなことを言われるのはごめんです。「素敵な家に住んで、すばらしい仕事にも就いた。カッコイイボートまで持っていたね。給料も良かった。評価=落第点・・・このクラスの課題ではありません!」
(「チームでする教会づくり」ウェイン・コデイロ著より抜粋)
 私たちは成功者になるために、一生懸命頑張って良い学校へ行き、すばらしい会社に就職し、評価を得るために一生懸命働き、給料をたくさもらい、地位も得て、欲しい物を手に入れることができたとします。それが成功者の姿だと思っている人は多いですが、もし、神が人間に与えた人生の課題が、そういう成功ではなかったとしたならば、最後に与えられる評価は、「落第点」ということになります。なぜなら、人生のクラスの課題ではないからです。
 聖書は、人は神に従うために造られたと教えています。自己実現ではなく、神実現のための人生だというのです。メーカーが作ったものは、メーカーの意思に反した動きをするならば、その目的を果たせないことになります。本来の目的を失ってしまった人生から生み出されるものは、失望と不安と悲しみです。それが罪から出てくる悪の結果です。
 少し時間を取って、「もし神様が私たちを創造されたとするならば・・・」「死後に存在する永遠の世界があるならば・・・」ということを考えてみてください。あまりにも課題外のことに必死になっていて、本来、人間のあるべき姿を見失ってはいないでしょうか?