「種」には、ものすごい生命力があります。エジプトのピラミッドの中で1つの壺が発見されて、それがロンドンの博物館に飾られていました。あるそそっかしい館員が、その壺を落として壊してしまいました。ところが中から何か小さな粒が出てきたので、鑑定に回したそうですが、しばらくしてから、壺が落ちたあたりから小麦が伸びてきたそうです。干からびた種であっても、命があって条件が整うならば、芽を出し始めるということなのです。
イエスさまは「種」に関する話をたくさん語られました。そして「種」を「神の言葉」にたとえておられることが多いのです。「神の言葉」なる種が、人々の心に蒔かれても、その土地(心)の状態によって、それが芽を出すか出さないか、芽が大きく伸びるか伸びないかが、決まってくるというのです。ある種は道ばたに落ちて鳥がきて食べてしまい、ある種は土の薄い石地に落ちて、芽は出したけれども根を伸ばすことができなかったので、すぐに枯れてしまい、他のはいばらの地に落ちたが、いばらが伸びてふさいでしまったのです。しかし、良い土地に落ちた種は、芽を出し、実を結び、何十倍もに大きくなったということでした。
神の言葉の種は、さまざまな形で人々に蒔かれますが、その多くは内側にある力を伸ばせないで干からびてしまっている現実があります。皆さんはいばらにばかり水をやっていないでしょうか? いばらとは、現実の困難や問題ということが言えるでしょう。それらを育てると出てくる実は「心配」や「恐れ」や「怒り」です。是非とも神の言葉を育てられる環境を心に与えてください。それはただ神を信じるということによって発揮される神の力となります。
この神の言葉(種)を蒔く者の希望を発見しました。それは、何千年も前の種が、条件と環境が整えば芽を出したように、私たちが蒔くときに、すぐに芽を出さないこともありますが、福音を聞いた人たちが、やがては良い土地になって、干からびた種(神の言葉)から命が流れ出すという体験ができるようになるということです。祈りましょう!