砂の上に建物を建てるほうが、岩の上よりも楽であるし、狭い門より広い門から入るほうが簡単であろう。人間は楽な方、簡単の方へ進みやすい傾向にある。それもその人の人生だからと言ってしまえば、それまでだが、勝負の世界では、そんなものは通用しない。辛い道、険しい道を選ぶ者の方が、最後には栄冠を受けるようになっている。

聖書は、「岩の上に建てよ。」「狭い門から入りなさい。」と教えている。これは辛い道、険しい道を選べという意味ではないが、人々がなかなか選択できない道であることは確かなことである。聖書の言葉を土台にして生活するより、耳ざわりの良い教えや、自己実現のための話なら耳を傾けやすい。神の言葉に聴くという現実離れしたものより、How toものに飛びついた方が得だと思えてしまう。しかし、人生の大きな嵐に耐えることができるのは、本当はどちらなのだろうか?

サックス奏者であり巡回伝道をしている岸義紘先生の曾おばあさんは、そのご主人が村の神社を建てることに貢献した神道の信仰一筋の人でした。神棚があって、朝晩そこに手を合わせていました。岸少年のお母さんとおばあさんはクリスチャンで、この曾おばあさんによく仕えていました。しかし、教会の集会に出かける時間になると、色々な嫌がらせをしたり、反対したり、時には喧嘩もしかけてきました。当時、それを見ていた岸少年は子供心に小さな胸が締め付けられる思いでした。いよいよ、この曾おばあさんが82歳で老衰の床についた時、お母さんとおばあさんを枕元に呼んでこう言いました。「私らの神道ではなぁ・・・死んだ後、どうなるのかハッキリしとらんのじゃ・・・ところで、あんたらのキリストさんの方では死んだ後は、ハッキリしとるんかなぁ? どうなっとるんかなぁ?」その後、村の教会の牧師先生に導かれ、イエス様を信じて洗礼を受けました。召される数日前に岸少年の手を握ってこう言いました。「おばあちゃんはなぁ、イエス様の天国に行くからな、そこへ行ったらな、一緒に遊ぼうな。あんたらが来るのを待ちよるからな。はよう来なさいよ」・・・狭い門からは永遠の希望が見えてくるのです。