世の中は、やっていることが得か損か、益か不利益かを考えながら動いています。個人もそうでしょう。そして無駄をはぶこうと努力するわけですが、どうも空回りしているような気がします。例えば選択肢の中にA案とB案があってA案を選んだとします。それで失敗したら、「無駄なことをして・・・」と人から裁かれ、自分も「遠回りしてしまった・・・」と自分自身を責めるわけです。いつもどちらを選ぶかの賭けのような人生を歩んでいます。もし、どちらを選んだとしても、後悔しない生き方ができれば、どれほど素晴らしいことかと思います。
世界のベストセラーである聖書には、「主にあっては無駄にならない」(Ⅰコリント15章58節)と書かれています。自分の為に生きているなら、この地上での責任は全て自分にあります。しかし神の為に生きる人生ならば、神さまが保証してくださるというのです。他の聖書箇所には、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」(伝道の書11章1節) 神さまのために生きる人は、たとえそれがこの世では無駄と思えるようなことでさえ益にしてくださるというのです。この世界は、体験してみないとなかなか理解できないことだと思います。しかし、私も含め多くのクリスチャンがこれを経験しています。この世では報われていないような人生であっても、主にあっては万事が益になっていることを天国で知ることになるでしょう。天国においては、たくさんの驚きがあるでしょう。驚くばかりの恵みと愛のゆえに、ただただ圧倒されて、感謝、感激しかない世界であります。この地上でのすべてのカラクリを理解することができるのも天国だと信じています。
この世は「死」を基準に生きています。医学が一番わかりやすいでしょうけれども、政治・経済・社会など、どの分野においても究極的には「死」に対する恐れから成り立っています。そして「死」で全てのものが終わってしまうのです。しかし聖書は死んでも生きる「永遠の命」を基準にしています。だからこそ、私たちの労苦が無駄になることはないと言い切ることができるのです。希望は失望に終わることはありません。