ある青年の証です。
彼は教会には通っていましたが、ずっと暗い過去を背負っていました。母親を早くに失い、毎晩ウィスキーを飲んで、寂しさをまぎらし、過去の辛い思い出を忘れようとしていました。ある日、教会の牧師が彼に尋ねました。「過去の出来事で、何が一番心の傷になっていますか?」すると青年は答えました。「母と卵を売り歩いたひとです。」雪の北海道で少年は、母親について、一軒一軒、卵を売り歩きました。しかしどこへ行っても、「いらないよ」「間に合ってるよ」と冷たく追い返されました。幼いながらも、そういう母親の姿を見て、可哀想になり、みじめにも思えてきました。そして「自分がこうなったのは、母親のせいだ!」と裁き当たるようになりました。やがては母親のイメージは、すっかり崩れてしまいました。そして母親の死に直面したのです。
牧師はそんな青年に言いました。「君が思い出したくない、その情景を、イエス様の前に開いてお見せしてごらん・・・」冬の北海道での、あの辛い情景を回想しているうちに、青年の顔がゆがんでいきました。しばらくして、滝のように涙を流し始めたのです。長い時間が経過しました。彼は涙を拭ってこう言いました。「牧師先生・・・イエス様が母の卵を全部買ってくれました。」
青年の心の傷は、この時を境にして癒されていきました。そして母親に対するイメージが変わり、優しく温かなものに回復していったのです。「お母さん、ありがとう。」青年は、そんな母親を持ったことを感謝し、誇りに思うように変えられたのです。
人間同士の問題は、身内であっても他人であっても、なかなか修復するのは難しいと思います。なぜならお互い自分が正しいと思っているからです。それが罪の姿なのです。そして人間はこの罪のトゲによって相手を刺してしまい傷つけ合うのです。人間が直接的に人と触れ合うと、自分の持っているトゲの故に、相手を傷つけてしまいます。しかし間にイエス・キリストを挟んで媒介的に近づくと、痛みも和らぎますよ。