「隠れておられる神」キム・ヨンボン著より
神は、私たちの平凡な日常、時にはいらいらしたり、絶望したりする日常の中に宝を隠されました。最初はその宝がまったく見えませんが、一つずつ探し始めると、その宝がどこにどのように隠されているかわかるようになります。目が開かれると、どこもかしこも宝のある場所になるのです。
ある教会の掲示板に、このようなユーモアのあることばがありました。「神が遠く感じるとしたら、神を遠くに移したのは一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちとともにおられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。
新しい年365日、神様は確実に私たち一人一人のそば近くで導いてくださいます。楽しいことや喜びも経験するでしょう。また辛いことも問題も起こるかもしれません。でも神様は変わらずすぐ近くにおられるのです。問題は私たちが、どのような心で現実を見るかということです。
さぁ一年後、誰が一番宝を見つけたか競争しましょう!
「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
(エペソ3章18~19節)