「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ったというのです。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「このまま、ずっとこの山にいて、世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、3人の木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待していました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが、そこで作られたのは大きな船ではなく小さな漁船になりました。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過してから、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れていました。
ある夜、一人の女の人が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしているのだと気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい嵐になって沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手を木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木のことを思う時、神の愛を考えるようになりました。
これが自己実現と神実現の違いです。思い通りならなくても大丈夫!「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)