日本人のもっている神概念は、自分の願いをかなえてくれるのが神の役目であり仕事だと思っている人が多い。だから役に立つ神々を求め続けて、日本には何と八百万(やおよろず)の神人口になってしまったというわけです。本来、能力のある神であれば、お一方で十分だと思いますが、人間の願いを実現してくれない、いわゆる「役立たずの神」を切り捨てて、次から次へと神々を作っていった結果であります。
ある村では、従来七十いくつもあった神社を、四箇所にまとめてしまうということが、かつて行なわれました。お陰で神社費は減って、村の経済は大変助かりましたが、気の毒なのは神様たちです。今までは、それぞれ大きな社(やしろ)の中に祭られていたものが、その改革で、小さな祠(ほこら)の中に押し込められ、大勢の神々との共同生活になりました。神様たちには何もお伺いせずに、村人たちの一方的な判断ですから、神様たちには寝耳に水で驚いたことでしょう。もし、私たちを、住み慣れた我が家から追い出し、知らない人々と狭いアパートで共同生活しろという人があったらどうでしょうか? 家は自分の城であります。場合によっては命がけで守らなければならないでしょう。しかし、七十数名の神々の中で、抗議する者もたたる者もなかったところを見ると、合併するのも捨てるのも、造り主である人間の自由ということなのでしょう。

聖書の教える神概念は、逆であります。人が神を造ったのではなく、神が人間を造ったというのです。ですから、人間のために神々がいるのではなく、神のために人間がいて、「神実現」のために私たちは存在しているということなのです。「自己実現」のために神が存在しているなら、意のままにならない神々に対して文句を言って捨ててもかまわないでしょう。しかし、神の御心がなされるために私たちが存在し用いられていることを知れば、文句は言えません。自分の罪深さや弱さに気づけば気づくほど、神様の恵みは大きくなってくるのです。
「恵みの世界」を見たいなら神概念を変えてみてはいかがですか?!