私たちのストレスの多くは、「こだわり過ぎる」ところに原因があると考えられます。勿論、「こだわり」がなければ、良いものは生まれないでしょうし、張り合いもなくなるでしょう。私はラーメンにはうるさくて、麺やスープにこだわりがないと、そのお店には二度と行きたいとは思いません。また、毎週のメッセージにはこだわっているつもりです。最善のものを提供して、満足して帰っていただきたいという願いからです。     
しかし、どのような「こだわり」でもそれが過ぎれば他者を苦しめることもありますし、何より自分に大きな悪影響を及ぼすことがあります。例えば、健康にこだわっている人は、度が過ぎると食べる物にも神経質になり、ちょっとした体の変化にビクビクしてしまいます。財産にこだわりすぎると、それを失うことへの不安が絶えず起こります。     
もしイエス・キリストが、ご自分の「神」という立場や、聖さにこだわりつづけておられたら、ドロドロとした罪の世界には来ることはできなかったでしょう。地上での様々な苦難を考えると、ご自分の立場に居座っておられた方がどれだけ楽だったでしょうか・・・ご自分の地位や環境に対するこだわりを持ち続けなかった故に私たちに対する救いを完成することができたのです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:6~7)

主よ、変えられないものを 受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける 英知を与え給え
(ラインホールド・ニーバーの祈り)    

私たちの「こだわり」が、自分や他者へのストレスになっていないかをチェックして、変えるべきことは、勇気をもって変え、変えられないことへの執着は止めて、心穏やかに過ごしたいものです。