時計の作られた目的は時間を正確に示すため。車の目的は人を乗せて楽に移動するため。ハサミの目的は紙や布を切るためです。人間が作ったものには、それぞれ目的があって、それはすべてそれを作った人間の 便利のために存在しています。もしそれらが人間の意図するものとは違う目的のために使われるようになったら混乱が生じます。たとえばバットは本来ボールを打つために作られましたが、人を殴るために用いたら凶器になります。
また、作られた物が壊れた時には、どこへ持って行けば良いのでしょうか? 車が故障してラーメン屋さんに持って行く人はいないでしょう。エアコンが壊れて、それを植木屋さんに持って行く人もいません。それぞれの製作者(メーカー)へ持って行かなければ、直らないのです。
さて、人間はどうでしょうか? 人間は何の目的のために存在しているのでしょうか? これは遠い昔からされてきた質問です。人間の社会に、世界中に混乱が絶えず生じていることが、もし自分自身の用い方を間違っている故であるならば・・・。
聖書は、神が人間の創造主であって、神の目的のために造られたと述べています。もしそれが本当であるなら、混乱の原因は、「自分」をメーカー(創造主)の意図しない使い方をしている故であるということになります。ということは、メーカーの目的通りに使用方法を改善するならば、混乱を解消することができるということになります。
もし私たちの心が空虚で壊れているならば、どこへ持って行けばいいのでしょうか? そうメーカーに持って行けばいいのです。
私たちには希望があります。何をしても無駄だった、効果がなかったと思える現実の中に、私たち人間の造り主がいるというところに光を見出すことができるのです。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1章31節) 無駄な努力をするより、そろそろ聖書に書かれていることを信じてみませんか?