息子の保育園時代に、発表会がありました。園児たちで合奏をするということでした。大きなペットボトルにビーズのようなものが入っていて、振るとガシャガシャと音がなる手作りの楽器を手にしているグループの中に息子がいました。演奏が始まる前から、子供たちは隣の友達とふざけ合ったりしていました。いよいよ合奏が始まりました。ところが練習はしたのでしょうけれども、先生の指揮のテンポを守っている子供はいないばかりか、「ガシャガシャ」「ドンドコ」「ピ~ヒャラ~ ピピピ」とそれぞれ違った騒音がそれぞれのパートから鳴り響き始めました。
もしこれが有料の音楽会でしたら、「入場料返せ!」との野次が飛んできてもおかしくはないのですが、この音楽会では、呆れて帰ったり文句が出るどころか、みんな始めから終わりまでビデオを回しているのです。そして、その騒音楽会の演奏が終了するや、拍手喝さいではありませんか。ブーイングに値する演奏を聴いて「素晴らしい!」とは、一体何がどうしたのでしょうか?
これは「関係」にあるのです。この悲惨な演奏をした子供たちと、それを聴きながらビデオを回している人たちは、親子関係にあるのです。親は自分の子供が「良い音楽を奏でることができたから」とか、「一生懸命にやっているから」というのではなく、その子供の存在が、その演奏の価値を決めているのです。
私たちの神と人との関係も同じことが言えます。私たちは真面目だからとか、良い行いをしているからとか、熱心だから、価値があるのでもなく神様に愛されているというのではありません。あなたという存在そのものに価値があるのです。
パウロは言いました。「私は神に背く者であり、反逆する者、迫害する者であったにも関わらず、忠実な者と見なして、この務に任じて下さったのである。」
神様は今日も、あなたを大切な存在として視線を送っておられます。
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43章4節)