1975年、キャサリン・クールマン師の癒しの集会で起こった出来事です。その集会では、たくさんの車椅子の人たちが立ち上がり、ガンが癒され
目や耳の不自由だった人が、次々と治るという奇跡が起こりました。集会が
終わって、会場の出口から人々が出始めました。その集会に参加していた
ある一人の青年も帰ろうとして出口に近づいた時、母親に押されている車椅
子の少女が視界に入りました。驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、
その体は異常に小さかったのです。すぐに奇形児だとわかりました。その青
年は、その子供を見て悲しく思い、神様に訴えました。「主よ! どうして
この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今、癒しを必要として
いるのですよ!」そして神様が、その少女を癒されなかったことに憤りを覚
えました。
 それから青年はピッツバーグからトロントに帰るためバスに乗りました。
長いバスの旅でしたが、2時間ほど経過したときウトウト居眠りをしながら、
夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆
と少女の車椅子を押している母親がいました。そこには、その様子を見なが
ら、「主よ。どうして、この少女を癒されなかったのですか?」と文句を言
っている自分自身の姿もそこにありました。しかし、そのシーンを見ている
と、イエス様が、その少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえて
おられました。そしてこう言われたのです。「私は、この子を忘れているの
ではありません。一度も忘れたことはありません。」それがイエス様からの
答えだったのです。

 私たちの人生で起こる「何故?」という出来事の中には、神様の目的や意
図がわからないことも沢山あります。それでも神様が造られた存在すべてに、
目的とプランがあり、責任をもって面倒をみていてくださっているのです。
何ができるできない関係なく、長生きできても、短命であろうとも、それぞ
れには、神さまからの特別なご計画があります。私たちが天国に行ったとき、
今まで理解できなかったことが、点と点が線で結ばれるようにして全てが明
らかになるでしょう。それを信じることを「信仰」といいます。
 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する
ことである。」(ヘブル11章1節)